昭和四十四年一月三日  朝の御理解


X御理解第八十五節 「女の身の上、月役、妊娠、つわりに、腹痛まず、腹帯をせずして、産前、身軽く、隣知らずの安産。産後、よかり物、団子汁をせず、生まれた子に五香いらず、母の乳をすぐ飲ませ、頭痛、血の道、虫気なし。不浄、毒断ちなし。平日のとおり。」


 いかに、取り越し苦労なんかがいけない事か、成行きを尊びいよいよ自然の働きを、自然の働きたらしめる、神様の働きたらしめる今、ここで申します様に、女の月役、妊娠、つわりと云った様な事。いわゆるおなごと云った業を女はからっておる。だから、それはもう仕方のない事だとゆう風に教えられてきた。

 ところが、ここのところを頂きますと、おなごと云う業なんか全然感じません。「産前、身軽く、隣知らずの安産」とおっしゃる。ひとつも女としての苦労がない。

 妊娠したからと云うて、つわりがある訳じゃない。腹が痛む訳でもない。血の道、虫気なし、不浄、毒断ちもいらない。平日の通り。と云う本当にこの通りのおかげが受けられる。

 いつかお話しました、フィリピンの全然痛まない、手で手術をされたと云うお話ですね。そうゆうのを、まのあたりに見せて頂いてから、それと同じ事が云えると思うのです。神様のおかげを頂くと云う事は、そうゆうおかげを頂くと云う事。

 ですけれども、妊娠したら何日目位にはつわりがあるんだと決めている。妊娠をしたら腹帯をする。ここでは腹帯をせずとはっきり云うてある。

 この通りの事がです、これは、女の妊娠だけの事じゃあない。全ての事の点に於てです、ここのところのおかげを頂かねばならない。どの様な場合、どの様な事に直面しましても、それを、「産前、身軽く、隣知らずの安産」とおっしゃる。どの様な難儀に出会っても、例えばその事が身軽くと云うのは、心も軽く、難儀な問題を難儀な問題とせず、しかも、隣知らずのどんなに難儀がありよろうがです。あんな例えば貧乏の中にでもです、本当に隣は貧乏しござるとじゃろうかと云う位なです、隣知らずの、いつも家の中は明るく朗らかに笑い声が絶えない。と云った様な中に、どの様な難儀があっておっても、それこそ隣知らずである。

 よかり物をせずとおっしゃる、云うなら子供が生まれる。五香いらず、母の乳をすぐのませ、確かにそれが道理である。その心がすでにおかげである。妊娠中は、ああしちゃならん、こうしちゃならんと云うのでなくて、金光様の信心を頂くと、この平日のとおりとおっしゃる全ての事にこの様なおかげが受けられる。平日のとおりの心の平安のおかげを頂かれるのである。

 この前、長田先生がみえられた時、私共の心の中には、男と女が同居しておらねばならんと云う御理解を頂いた事があるのですが、云うならば、心の中におかげが産み出されるおかげを頂く為には、男と女が同居しておらねばなりません。

 小倉の初代・桂先生が四神様のお口添えで、大阪難波の近藤藤守先生の所のお弟子入りをなさった。その時に、桂先生が向こうに行かれて、まだご挨拶もせぬうちに、「今朝から、『西海にひ鯉を放つ』と頂いたが、お前の事じゃったか」と云われたそうです。

 西海と云うのは九州と云う事でしょうねえ。一昨日の元旦祭に、一つの樽がお供えになっておりましたが、あれも西海と云うおみきです。しかも、一つの樽、今日はしきりにその事を思わして頂くのです。『西海にひ鯉を放つ』、云うなら女の徳者と云う事。

 桂先生が女性であった訳ではない。と云うて、女性的な方であったとも思われない。九州の三雷と云われる位にやかましいお方であった。けれども、その内容には非常に情のあついものを持っておられた。いわゆる、男性的なものと、女性的なものが同居しておられた。

 だから、たくさんな信者が生まれた。たくさんな先生方が生まれなさった。と云う事になるのです。

 近藤藤守先生の所で御修行中、近藤先生が御本部へ御参拝になった。幾人もの修行生がおられる。当時は、こうゆう教典と云うものが全然なかった。大谷にお参りして、金光大神に会われると、一つずつの御教えを頂かれた。それが唯一の教えであった。

 それを、近藤先生は、お参りされるたんびにずっと書き留められた。それを御結界の引出しに入れておられた。近藤先生は御出発に際して、「御結界を開けるなよ。移り変わりに奉仕しておけよ。けれども御結界に奉仕しても、決して机の中を開けちゃならんぞ」と云いおいて出られた。

 見るなと云われれば見たくなるもの、沢井と云う偉いお弟子さんがおられたが、御結界の机を開けて、見られた。そして、その驚かれた訳です。それこそ教祖様の直々の御教えがたくさん書き留められてある。

 それこそ、それをこっそり読まれると同時に、一生懸命書き写された。そして、頂き終わって修行しておられる桂先生にそれを見せられた。そして、一番初めに書いてある御教えを、ひとつ桂先生が書き写されたら、お返しになった。

 沢井先生が、皆んな写しときなさいと云われた。そしたら桂先生が、「沢井先生、私はこの御教えひとつをとっても、一生掛かってこれが出来るやら分かりません。」と云われた。ですから、たくさん頂いとっても御無礼になります。ですから一番初めの御教えを、ひとつ書き写されて、お返しなされた。「沢井先生、私はこの御教え一つを一生掛かって出来んかもしれません。」出来ん事をいくら頂いても同じだと云う訳です。本当におかげを受ける人は違うと云うお話が残っているおります。

 私共は、せめて一年間にこの事だけは、と私が元旦に頂いた。それに焦点を置くと云うても、一年間それに焦点を置いてきた様であって、なかなかお粗末であった。

 いわゆる目の荒い事であった。あと幾日で正月と云う様になって、ヤァヤァ云うて、まあ仕上げとかんならんと思うて、それに焦点を置いて、それに取り組ませて頂くと、なんと有難い御教えであろうかと感じるのです。

 それを一生と云う事ではありませんけれども、せめて一年間本気でその事に取り組ませて頂く、取り組めば、取り組むほど、桂先生じゃないけれども、その難しさに本当に驚くばかり。その御教えの深さ広さに、只、驚くばかり。その深さ広さが完璧に分かってしまわなければ、おかげは受けられんと云うのではなくて、それに取り組んでおればおかげの受けられると云うのがお道の信心。

 昨年の、いよいよ豊かに、いよいよ大木くと云うその事に焦点を置いたら、昨年一年中頂いたお話が、それひとつにしぼられると云うてもよい。

 その信心を飯台がわりに、それを基礎、上台として、新たな年を向かえての元旦にそれを頂いて、今年のスローガンであるところの、より明るく、よりにこやかにと云う事を、焦点に置かして頂いたら、よりにこやかにと云う事の難しさ、より明るくと云う事の至難さと云うものをです。もう、ここ二、三日の間にひしひしと感じております。

 そして、今迄考え付かなかった様な事を考えさして頂いております。その事から。ですから昨日頂きました、もう本当に、目ごまい信心とでも申しましょうか、そうゆう信心の中から、ここのところの御教えをいよいよ行じさせてもらう。

 云うならば、今日の御理解からいくと、女性の神主の細かさとでも申しましょうか、いわゆる女性独特のひとつの感とでも申しましょうか、女性の持つその全てをです。私共そんなら男でも、内容として持たなければならない。だからこそ良いものが次々と生まれてくる。良いものが次々と妊娠のおかげを頂く事が出来る。

 その事をです、私共は「月役、妊娠、つわりに、腹痛まず」とおっしゃるのですから、どの様に、妊娠のおかげを頂いて産みなす苦しみとか云うけれども、産前、産後身軽くとおっしゃっておられる。

 そこんところを、大きなお腹して、きついきついと云うのはあれは観念である。妊娠すりゃあつわりがあったり、腹が重いとか、そうゆう事はなか。この御教えをそのように信じさせて頂いたら、それこそ、血一滴流さずに、お腹の手術が出来る様にです、おかげの頂かれる様になっとるて、人間は。

 妊娠すりゃこげんだあげんだと、人間心ばかり使うて、腹帯をしたらいいとか悪いとか云うけれども、そうゆう様な事をせずにです、「血の道、虫気、不浄、毒断ち無し」と云った様な事をです、こうしちゃいけん、ああしちゃいけんと云った様な、私は人間心と云うものをはずして、平日のとおりのおかげの頂ける信心を身につけていかなければならない。

 そこから例えば心配をせず、取り越し苦労をせず、おかげの頂いていけれる道をです、頂いていく事が出来るのです。

 取り越し苦労をするなら、そこが痛む事になったりするのです。そこでそこで不浄、毒断ちなどをするから、平日のとおりになれないのである。人間心を使うからいけんのである。この事を御神*かいにはどの様にあるかと思うたら、「物毎(ものごと)に時節を待たず苦をすること。」と頂きました。取り越し苦労をするなと云う事なんです。

 例えば、私共の今度の豊美の話でもそうである。女がもう二十七にもなる。次には娘が次々とある、親として早うどこか貰い手があるなら、 ずけにゃと云うのは人情である。神様のご都合なのだから時節を待つのである。

 売れ損のうたからと云うて、気をもむな。買い損のうた者がおるとおっしゃる。それでなからにゃならん、と云うて買いに来る者がある。お繰り合わせを願え、それが買い損のうた人が、これでなからないかんと云うて買うて下さる事になる。しかも考えれば考える程に、云わばもったいない程のおかげである。